04 頭も性格も良い子どもが育つ家庭

 数年前のことです。ある方の講演を聞く機会がありました。講師は学習塾を経営されており,数多くのメディアに紹介されている方です。どんな話だったのかほとんど忘れてしまいましたがひとつだけ今でも覚えていることがあります。とは言っても5年以上前のことです。その講師の方が言われたことに私なりの解釈が入っていると思ってください。

 勉強はできるけれど性格は悪い人は世の中に大勢います。これは大人も子どもも同じです。優秀だけれども他者を思いやる気持ちが乏しい人は珍しくありません。いい高校に入りたい,いい大学に入りたいと思ったら,ライバルよりも優秀な成績を取らなくてはなりません。基本的に世の中は競争で成り立っています。学校教育の目標は人格の形成であると謳われていますが,そこから競争的な要素が消えることはありません。勝つこと,つまりテストでいい点を取ることだけが重視されてしまうと「頭はいいけど性格はちょっとね」という子どもが生産されてしまうのでしょう。

 その塾経営者は,成績が良くて尚且つ他者を思いやる優しさを備えた子ども達を対象に調査を行いました。頭が良くて思いやりのある子ども達が共有している要因を明らかにしたかったそうです。これを明らかにすることができたら,子育てをしている多くの親にとって貴重な情報になります。どういう子ども達を調査対象としたのか,どうやってデータを収集し分析を加えたのかを説明して,いよいよ結果についての話に移りました。しかし開口一番,その塾経営者は言いました。

 

「結局,はっきりとしたことは分りませんでした。」

 

 期待を裏切られてがっかりしたのでしょう。聴衆が冷ややかな声を漏らしました。講演者は我々の反応を楽しんでいるようでした。聴衆の声が収まるのを待って,その塾講師は続けました。

 

「しかしこの調査から,頭も性格も良い子どもはこれからお話しさせていただく3つの要素を共有していることが確認できました。これで間違いないと言い切れる程の自信はありません。これからさらに調査を続けたら結果が変わってくるかもしれません。その点をご了承の上,私の話を聞いてください。」

 

 世の中には眉唾レベルの内容を絶対的な真実であるかのように自信を持って吹聴する人がたくさんいます。この塾講師はそういう輩ではありませんでした。お話しぶりは堂々とされていて自信に満ち溢れていましたが,同時に優れた教育者が持つ謙虚さを感じさせる方でした。以下,その方の言われていた3つの要素です。

 

(1) お父さんとお母さんの仲がいい。

 なぜこれが子どもの成績と性格にいい影響を与えるのか私には理解できません。しかし父親と母親の仲が良ければ,家庭全体の雰囲気が良くなると思います。両親が対立している姿は子どもを不安な気持ちにします。「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」という言葉がありますが,子どもにとっても嬉しいことではありません。

家庭内で対立が起こると子どもは不安になります。不安を感じている状態では人間は自分の能力を発揮することができません。心配事があると目の前のことに集中することが難しいのは大人でも同じです。私自身は不安がある時ほど,心配事など何もないかのように振る舞うようにしています。ある方から勧められて試みていることです。しかしこれを実践することができるようになったのは,最近のことです。子どもにこれを求めるのは無理でしょう。

人と人との対立が周囲の人にいい影響を与えることはありません。誰かと誰かが怒鳴り合っている時,そこからは周りの人を不快な気持にする悪い気が放出されています。子どもがこれを浴び続けたら,猜疑心が強くなり同時に他者に対する愛情は委縮してしまいます。いいことは何もありません。夫婦が仲良くしている姿を子どもに見せましょう。

 

(2) 勉強しなさいと親に叱られたことがない。

 親はついつい「早く勉強しなさい。」,「もう宿題は済んだの。」と子どもに言ってしまいます。これを聞いて機嫌が良くなる子どもはいません。小学生の時母親から「もう宿題したの?」とイライラした口調で母親に言われたことに腹を立てて「今からしようと思っていたんだよ。」と怒鳴り返した記憶があります。その態度を両親に叱られてようやく机に向かった時は,とても宿題に集中できるような状況ではありませんでした。

 ではどうすれば自分から進んで机について勉強する子どもを育てることができるのでしょうか。参考になるか分かりませんが,我が家での試みを報告させていただきます。娘が小学校に入学した時のことです。入学式の最後に,校長先生が私たち保護者に対して言いました。

 

「学年×10分間,毎日これだけは集中して机に向かうようにさせましょう。そしてお父さん,お母さんのどちらでもいいです。頑張っているお子さんを側で見守ってください。スマフォはどこか手の届かないところに置いてお子さんだけを見てください。」

 

 私は聞き流していましたが,妻はこれを忠実に実行しました。1年生の時は10分,2年生になったら20分,そして3年生は30分と時間は伸びていきました。当時の私は通勤時間が片道2時間半という生活を送っていましたので娘の勉強にはノータッチでした。私が帰宅したら娘は既に寝ているというのが日常でした。

 娘が小学校3年生になる時,私は片道2時間半の通勤生活から解放されました。自転車で片道20分弱になりました。机に向かって勉強している娘の姿を見てびっくりしたのを覚えています。この時,娘は既に学習習慣が確立していました。母親が横で見守っていなくても,自分の意志で机に向かうようになっていました。

 今,娘は中学校2年生です。もう母親の見守りは必要ありません。適度に休憩しながら自分の意志で勉強をしています。ちなみに集中力の持続時間は私よりも長いです。

 

(3) お母さんがいつもニコニコしていた。

 子どもに与える影響は父親よりも母親の方が大きいです。そして,お母さんがハッピーでいることは子どもだけでなく,家庭全体にとってとても大切なことです。今は男女平等の時代です。父親が家事をする,父親が育児をするというのはどこの家庭にも見られるありふれた光景になっています。しかし,家庭内の主役はお母さんです。お父さんは脇役にしか過ぎません。お父さんの仕事は,お母さんが家庭内でニコニコしていられるような環境を整えることです。では,いつもお母さんがニコニコしていられるために,私たちに何ができるのでしょうか。

 家事等を積極的に行うことは基本中の基本です。これが出来ていない人はすぐに始めましょう。これは,お金はかかりません。お父さんがちょっと頑張ればそれで終わりです。

 次はお金がかかります。家計に負担がかからない範囲で,お母さんが自由に使えるお金を工面しましょう。例外はあるかもしれませんが,多くのお母さんは自分のためにはお金を使いません。子どもの物を買うときは気前がいいお母さんも,自分の物を買うときは慎重になる傾向があります。お母さんが自分だけのために使えるお金をやりくりしましょう。

 服を買うのも良し,仲間と一緒に食事に行くのも良しです。仕事と家庭で疲れているお母さんがリフレッシュできる環境を整えるのが私たちに課せられた大切な役割です。

 

 頭が良くて性格のいい子どもが育つ家庭が持つ3つの要素についてあなたはどう思いますか。証明されているわけではありませんが,私はなかなか説得力があると思います。興味のある方は心掛けてみましょう。

02 大切な人

 結婚して23年余りが過ぎました。何度,衝突したか覚えていません。奥さん(またの名を女王様)が私に愛想を尽かして,家を出ていきかけたことも何度かありました。でも最近,心の底から思います。

 

この人と一緒になって良かったな。

 

 私たち夫婦は,なかなか子どもに恵まれませんでした。同じ時期に結婚した友人たちはどんどん親になっていきます。そのうち子宝に恵まれるだろうと思っている内に,時間だけが流れていきました。結婚して約2年の月日が流れた時のことです。病院に行って検査を受けて,厳しい現実を知らされました。自然妊娠で子どもを授かる可能性は限りなくゼロに近いという現実を。

 最初に体外受精をしたのは1999年のことです。もう20年以上前のことなので当時のことはほとんど何も覚えていません。ひとつだけ覚えているのは妻が苦しんでいたことです。突然の腹痛を訴えて,病院へ駆け込んだことだけは今でも記憶に残っています。その時は結局,子宝には恵まれませんでした。

 これでようやく親になれるという大きな期待を持って取り組んでいたので,ダメだったと分かった時はショックが大きく。しばらくの間,何もやる気になれませんでした。その後,不妊治療についての話題は我が家ではタブーとなりました。

 2005年に我が家に家族が増えました。ミニチュアダックスフンドのももちゃんです。その頃,奥さんも私も子どもを持つことをあきらめかけていました。私は39歳,妻は33歳になっていました。そんな妻と私の気持ちを変えてくれたのはももちゃんです。守るべきものがいるということが,生活をどれだけ豊かにしてくれるのかをももちゃんは私たちに教えてくれました。

 2006年3月のことです。ほぼ7年ぶりに体外受精に再度,チャレンジしました。そしてその年の11月に長女が生まれました。当時の写真を見ると,娘とももちゃんが一緒に写っている写真がたくさんあります。赤ちゃんと犬を一緒にしてはいけないという助言をしてくれる人もいましたが,私たちにとってはももちゃんも大切な家族の一員です。娘のそばでももちゃんが気持ち良さそうに寝ている写真は,今見ても癒されます。

 2007年の春頃から家族3人とももちゃんとで,お出掛けするようになりました。初めて遠出した時は大変でした。走り始めて30分くらいで,ももちゃんが車酔いしてしまいました。車を止めてしばらく休憩,ももちゃんを散歩させて娘にミルクを飲ませてから再び走り始めました。10分もしないうちに,車の中に嫌な臭いが広がりました。「やれやれ」と思いながら車を停めて娘のオムツを交換。時計を見ると自宅を出発してから既に2時間近くが経っていました。しかし,自宅からまだ30㎞程度しか走っていませんでした。

 

 そして,平成24年2月には息子を授かりました。息子は私の誕生日に生まれてきました。生涯最高の誕生日プレゼントです。

 

 一人目の子を授かるまでに9年間,そして二人目の子を授かった時は結婚してから15年の月日が流れていました。娘は中学校2年生,そして息子は小学校3年生です。友人の子どもの多くは既に大学生です。子どもが社会人になっている友人もいます。

 我が家の子育てはまだまま続きます。年を取ってから子どもができた夫婦は老後破産する可能性が高いとネットで見つけた記事に書かれていました。ネットにはこんなふうに人々の不安な気持ちを煽り立てるような記事で溢れています。私は決して心が強いわけではありませんが,このような記事を気にしない方です。なぜでしょうか。心配しても仕方ないことを心配するのは時間の無駄だと思っているからです。

 もしかしたら10年後,あるいは20年後に経済的に困窮しているかもしれません。大病を患っているかもしれません。でもそれを今,心配して何になるのでしょうか。経済的に困窮したくないので毎月,ささやかですが貯金しています。病気にならないように食生活には気をつけています。今できることに全力で取り組めばいい。それだけのことです。

 私が物事をこんな風に,いい意味でおおらかに考えることができるようになったのは,結婚してからです。かつては少しでも物事が思っていた通りに進まないと,イライラして心のバランスを失っていました。

 大切な人と一緒に過ごす時間は,私たちの幸福感を高める効果を持っています。大切な人と一緒にいるだけで,いつもの場所が特別な場所になるのです。私の場合,奥さんと一緒にいると,近所のいつもの散歩道やスーパーが特別な場所に変わります。幸せな気持ちで満たされます。同じ場所へ1人で行くこともあるので,感覚の違いがとてもよく分かります。

 大切な人がいるから仕事も頑張れるのではないでしょうか。でも時々,そのありがたさを忘れてしまう時があります。人間は大切な人に冷たい態度を取ってしまう矛盾した生き物なのでしょう。

 時々,振り返ってみましょう。自分が頑張れているのはなぜなのか。自分がどんな時に幸せだと感じているのか。きっと大切な人の存在が思い浮かぶはずです。

01 愛犬との別れ

 2020年7月23日の午前10時52分,我が家の愛犬ももちゃんが,15年と6か月の生涯を終えました。

 ももちゃんの毎日は,トイレに行くために私の妻を起こすことから始まります。トイレに行きたくなると,妻の顔をペロペロなめて起こします。トイレが終わると朝ごはんの催促です。餌にふりかけがかかっていないと,ふりかけが入っている棚の前に座ってワンワンと催促を続けます。

 食後の💩を済ませると,私たちを見送ってくれます。子ども達は学校へ,妻と私は職場へ。「ももちゃん,行ってくるね。お留守番お願いね。」と声をかける私たちを,ももちゃんは少し寂しそうに見送ります。お昼は南側の窓のそばで日光浴をしながらお昼寝です。私が帰宅すると,尻尾を振りながら嬉しそうに駆け寄ってきます。抱きかかえると私の顔をペロペロとなめてお帰りの挨拶です。そんな生活が去ってしまう2日前まで変わることなく続いていました。

 7月22日の朝,ももちゃんは朝ごはんの催促をしませんでした。いつもの元気がありません。仕事が休みだった妻は,すぐに病院に連れて行きました。その日は診察を受けて,帰宅しました。その日のももちゃんは,帰宅した私の姿を見ても駆け寄ってくることはありませんでした。私の方に顔を向けて尻尾をちょっと振っただけでした。

 翌日の朝,妻と2人でももちゃんを病院に連れて行きました。エコー検査,血液検査が終わった後で獣医さんの説明を受けました。

 

「すぐに入院させてください。全力を尽くします。しかし,かなり厳しい状況です。」

 

 妻と2人で横たわるももちゃんに声をかけ続けました。その時,ももちゃんが私たちに向かって吠えました。その弱々しい吠え声が,ももちゃんの最後の声になりました。ももちゃんを入院させるための手続きを取って一度,帰宅しました。その約2時間後にももちゃんは,旅立ちました。苦しむことなく眠るように旅立っていったそうです。

 

 自宅に連れて帰ったももちゃんの亡骸はまだ温かく,お昼寝をしている時とまったく変わりありませんでした。でも,私たちがどんなに声をかけても,ももちゃんが動くことはありません。23日の夜,ももちゃんと最後の夜を過ごしました。ももちゃんの亡骸は少しずつ冷たくなっていきました。

 

 逝ってしまう数日前までは,それまでとまったく変わらない日々を送っていました。15歳になってから,少しずつ動きがゆっくりになっていきましたが,愛犬のいる生活を楽しんでいました。もうしばらくは一緒にいられると決め込んでいました。

 こんな形で突然のお別れになるとは夢にも思っていませんでした。突然過ぎてまだ受け入れることができていません。8歳の息子は思い出すたびに泣いています。悲しい気持ちが癒えるまでにまだまだ時間がかかりそうです。でも少しだけ,ももちゃんの思いが分かってきました。

 

「私の元気な姿をしっかりと覚えていて」「私との楽しい思い出を忘れないでね」

 

 ももちゃんの思い通りになりました。ももちゃんと過ごした15年6か月を振り返ると楽しい思い出ばかりです。尻尾をフリフリしながら嬉しそうにしているももちゃんの姿が瞼に浮かびます。旅先の海で突然の大波にももちゃんがびっくりしていたこと,雪の上を一緒に走り回ったこと,泥だらけになって遊んだこと,私の鼻にいきなり噛みついたこと,食卓によじ登ってこっそり饅頭を食べていたこと。話し始めると止まりません。

 

 苦しんでいる姿を私たちに見せたくなかったんだね。最後まで私たちに気を使ってくれてありがとう。

 

 ペットは飼い主に降りかかる禍を,自らが引き受ける力を持っていると聞いたことがあります。もしかしたら,我が家に良くないことが起ころうとしていたのかもしれません。それを誰よりも早く察知して私たちを守ってくれたのでしょうか。

 

 ももちゃん,あんたは最高だったよ。ありがとう。

 

00 変わろう

 幼少期を過ごした故郷に帰ってきて4年と半年の月日が流れました。ここは時間がゆっくりと流れています。数年間過ごした神戸市とは,比較にならないくらいに刺激が少ないところです。気持ちの安らぐところはたくさんありますが,若者が集まりたくなるような場所ではありません。それでも私にとってはかけがえのない故郷です。ここで今,私は人づくりの仕事に携わらせていただいています。人が成長するプロセスを見守り必要に応じて支援する仕事は,大変ですがやりがいがあります。学生たちからパワーを貰いながら,私も一緒に成長させていただいています。

 

 我が故郷の県庁近くにある駅を降りると,そのすぐ近くに家庭裁判所があります。この建物が見える場所を通ると,15歳の時に父と一緒にそこへ行った日のことを思い出します。

 私が中学生の頃,日本の教育現場は校内暴力で荒れていました。授業をしていると校庭内にバイクが入ってくる,それを体力自慢の若い先生が追いかける,時にはパトカーが登場するなんてこともありました。不良があこがれの対象だった時代です。私は他人に対して暴力を振るうようなことはありませんでしたが,タバコや万引きについてはあまり罪悪感を覚えることなく誘われるままにしていました。

 私の父親は,地元では名前の知られた大きな会社の社員でした。母は専業主婦でした。私が3歳の時に父は家を建てました。周囲から見れば幸せな家庭に見えたはずです。その平和で平凡で幸せな家庭に私はうんざりしていました。

 

 ある日,近所に原付バイクが乗り捨てられていました。原付といってもスクーターではありません。今はあまり目にすることがありませんが,当時はスポーツバイクタイプの原付は流行していました。乗り捨てられていたのは,そういうスポーツタイプのバイクでした。中学生だった私は,湧き上がる好奇心を抑えることができず,友人と2人で誰にも見られないようにそのバイクを近所の公園まで押して行って隠しました。しかし,鍵がなければエンジンは掛かりません。この問題は,友人の兄が直結してエンジンを掛ける方法を教えてくれてクリアしました。

 9月頃だったと思います。家族全員が寝静まった後でこっそりと家を抜け出して,友人とバイクに乗るようになりました。最初は友人と私だけでしたが,噂が広がって人数が増えていきました。しばらくは公園内で楽しんでいました。徐々に気持ちが大きくなって,一般道で乗るようになりました。でもバイクは1台しかありません。

 

「ちょっとその辺にあるバイクを借りよう。」

 

 友人が言いました。要するに盗もうということです。反対する者は誰もいませんでした。悪事はひとたび加速を始めると,あっという間に制御不能になってしまいます。うまくいってしまうとなおさらです。「ばれるわけがない」,「捕まるわけがない」という気持ちが大きくなって冷静な判断ができなくなってしまいます。私と友人たちが,最終的に何台のバイクを盗んだのかは覚えていません。時にはパトカーと遭遇し,友人の1人があわや捕まり掛けるという出来事もありました。

 

 10月半ばを過ぎた頃から高校入試のことが気になり始めました。バイクに乗っている時も,楽しさよりも寒さが辛くなってきていました。夜,こっそりと家を抜け出すことにもスリルを感じなくなってきました。麻疹のようなものだったのでしょうか。自然に乗り捨てられていたバイクを見つける前の生活に戻りました。

 

 11月のある日曜日の朝でした。母が血相を変えて私の部屋に駆け込んできました。

 

「あんた,何したの!警察が来てるよ。」

 

 何が何だか分からないまま,私は警察署に連れて行かれました。どうやら前日の夜,盗んだバイクに乗っていた友人が警察に捕まって,私の名前を警察に言ってしまったようです。そいつは既に警察署で取り調べを受けていました。悪いことをすればその報いは必ずやってきます。その日の取り調べはお昼ごろに終わりました。しばらくして警察から調書作成のための呼び出しがありました。そしてそれからさらに数か月経った後で,裁判所から呼出状が届きました。

 私は既に高校1年生になっていました。十分な受験勉強はできませんでしたが,高校生活を始めていました。自分のやらかした愚かな行為はすべて忘れ去って,何事もなかったかのように高校生活を謳歌していました。呼出状のことを母に聞かされた時も,反省の気持ちより「なんで今頃になってこんなもんが届くんだよ!」という苛立ちの方が大きかったです。

 

 家庭裁判所へ行く日,父は仕事を休みました。それ以外の日に父が休みを取ったという記憶が私にはありません。私の父親世代は多くが会社人間でした。家庭裁判所へ向かう車の中,ほとんど会話はありませんでした。

 家庭裁判所の建物に入るとしばらく待たされたあとで,裁判官のいる部屋へ案内されました。裁判官から何か色々なことを聞かれましたが,どういう内容だったのかそれに対しどう答えたのかまったく覚えていません。その後,父親に対しても何か質問していたと思います。一通りのやり取りが終わった後で,裁判官は言いました。

 

「処分無しとします。あとはお父さんとお母さんでしっかりと面倒を見てください。」

「ありがとうございます。」

 

 そう言って父は深く頭を下げました。私の中で何か変化が生じたのはその時です。

 

「変わろう。自分の人生を大切に生きよう。」

 

 帰りの車の中,行きと同じでほとんど会話はありませんでした。自分の気持ちを伝えたいという思いはありましたが、照れ臭さと気恥ずかしさで何も言えませんでした。父が話しかけてきても,最低限の返事をするだけでした。

 私のこの塩対応は,父親が亡くなるまで変わることがありませんでした。心の中では感謝の気持ちでいっぱいなのに,面と向かうとそれを伝える言葉が出てこない。感謝の気持ちを伝える機会がないまま,父は約10年前に旅立ちました。

 

 あの日からもう少しで40年になります。家庭裁判所の建物を目にする機会が増えたからでしょうか。最近,イライラして何かを投げ出したい気持ちになると,あの日のことを思い出します。そして深呼吸をして自分を元気づけます。

 

「投げ出すのはもったいない。これは自分を変えるチャンスなんだ。」

 

 早いもので私も50代半ばです。既に人生の折り返し地点を超えています。あとどれだけ変わることができるでしょうか。お迎えが来る直前が自分史最高の状態になって,思い残すことなく旅立ちたいと思う今日この頃です。