00 変わろう

 幼少期を過ごした故郷に帰ってきて4年と半年の月日が流れました。ここは時間がゆっくりと流れています。数年間過ごした神戸市とは,比較にならないくらいに刺激が少ないところです。気持ちの安らぐところはたくさんありますが,若者が集まりたくなるような場所ではありません。それでも私にとってはかけがえのない故郷です。ここで今,私は人づくりの仕事に携わらせていただいています。人が成長するプロセスを見守り必要に応じて支援する仕事は,大変ですがやりがいがあります。学生たちからパワーを貰いながら,私も一緒に成長させていただいています。

 

 我が故郷の県庁近くにある駅を降りると,そのすぐ近くに家庭裁判所があります。この建物が見える場所を通ると,15歳の時に父と一緒にそこへ行った日のことを思い出します。

 私が中学生の頃,日本の教育現場は校内暴力で荒れていました。授業をしていると校庭内にバイクが入ってくる,それを体力自慢の若い先生が追いかける,時にはパトカーが登場するなんてこともありました。不良があこがれの対象だった時代です。私は他人に対して暴力を振るうようなことはありませんでしたが,タバコや万引きについてはあまり罪悪感を覚えることなく誘われるままにしていました。

 私の父親は,地元では名前の知られた大きな会社の社員でした。母は専業主婦でした。私が3歳の時に父は家を建てました。周囲から見れば幸せな家庭に見えたはずです。その平和で平凡で幸せな家庭に私はうんざりしていました。

 

 ある日,近所に原付バイクが乗り捨てられていました。原付といってもスクーターではありません。今はあまり目にすることがありませんが,当時はスポーツバイクタイプの原付は流行していました。乗り捨てられていたのは,そういうスポーツタイプのバイクでした。中学生だった私は,湧き上がる好奇心を抑えることができず,友人と2人で誰にも見られないようにそのバイクを近所の公園まで押して行って隠しました。しかし,鍵がなければエンジンは掛かりません。この問題は,友人の兄が直結してエンジンを掛ける方法を教えてくれてクリアしました。

 9月頃だったと思います。家族全員が寝静まった後でこっそりと家を抜け出して,友人とバイクに乗るようになりました。最初は友人と私だけでしたが,噂が広がって人数が増えていきました。しばらくは公園内で楽しんでいました。徐々に気持ちが大きくなって,一般道で乗るようになりました。でもバイクは1台しかありません。

 

「ちょっとその辺にあるバイクを借りよう。」

 

 友人が言いました。要するに盗もうということです。反対する者は誰もいませんでした。悪事はひとたび加速を始めると,あっという間に制御不能になってしまいます。うまくいってしまうとなおさらです。「ばれるわけがない」,「捕まるわけがない」という気持ちが大きくなって冷静な判断ができなくなってしまいます。私と友人たちが,最終的に何台のバイクを盗んだのかは覚えていません。時にはパトカーと遭遇し,友人の1人があわや捕まり掛けるという出来事もありました。

 

 10月半ばを過ぎた頃から高校入試のことが気になり始めました。バイクに乗っている時も,楽しさよりも寒さが辛くなってきていました。夜,こっそりと家を抜け出すことにもスリルを感じなくなってきました。麻疹のようなものだったのでしょうか。自然に乗り捨てられていたバイクを見つける前の生活に戻りました。

 

 11月のある日曜日の朝でした。母が血相を変えて私の部屋に駆け込んできました。

 

「あんた,何したの!警察が来てるよ。」

 

 何が何だか分からないまま,私は警察署に連れて行かれました。どうやら前日の夜,盗んだバイクに乗っていた友人が警察に捕まって,私の名前を警察に言ってしまったようです。そいつは既に警察署で取り調べを受けていました。悪いことをすればその報いは必ずやってきます。その日の取り調べはお昼ごろに終わりました。しばらくして警察から調書作成のための呼び出しがありました。そしてそれからさらに数か月経った後で,裁判所から呼出状が届きました。

 私は既に高校1年生になっていました。十分な受験勉強はできませんでしたが,高校生活を始めていました。自分のやらかした愚かな行為はすべて忘れ去って,何事もなかったかのように高校生活を謳歌していました。呼出状のことを母に聞かされた時も,反省の気持ちより「なんで今頃になってこんなもんが届くんだよ!」という苛立ちの方が大きかったです。

 

 家庭裁判所へ行く日,父は仕事を休みました。それ以外の日に父が休みを取ったという記憶が私にはありません。私の父親世代は多くが会社人間でした。家庭裁判所へ向かう車の中,ほとんど会話はありませんでした。

 家庭裁判所の建物に入るとしばらく待たされたあとで,裁判官のいる部屋へ案内されました。裁判官から何か色々なことを聞かれましたが,どういう内容だったのかそれに対しどう答えたのかまったく覚えていません。その後,父親に対しても何か質問していたと思います。一通りのやり取りが終わった後で,裁判官は言いました。

 

「処分無しとします。あとはお父さんとお母さんでしっかりと面倒を見てください。」

「ありがとうございます。」

 

 そう言って父は深く頭を下げました。私の中で何か変化が生じたのはその時です。

 

「変わろう。自分の人生を大切に生きよう。」

 

 帰りの車の中,行きと同じでほとんど会話はありませんでした。自分の気持ちを伝えたいという思いはありましたが、照れ臭さと気恥ずかしさで何も言えませんでした。父が話しかけてきても,最低限の返事をするだけでした。

 私のこの塩対応は,父親が亡くなるまで変わることがありませんでした。心の中では感謝の気持ちでいっぱいなのに,面と向かうとそれを伝える言葉が出てこない。感謝の気持ちを伝える機会がないまま,父は約10年前に旅立ちました。

 

 あの日からもう少しで40年になります。家庭裁判所の建物を目にする機会が増えたからでしょうか。最近,イライラして何かを投げ出したい気持ちになると,あの日のことを思い出します。そして深呼吸をして自分を元気づけます。

 

「投げ出すのはもったいない。これは自分を変えるチャンスなんだ。」

 

 早いもので私も50代半ばです。既に人生の折り返し地点を超えています。あとどれだけ変わることができるでしょうか。お迎えが来る直前が自分史最高の状態になって,思い残すことなく旅立ちたいと思う今日この頃です。